護国寺:江戸時代の建物が残る貴重な寺院
護国寺には、二度目の参拝です。実はこの護国寺が、私の御朱印集めの最初の寺院でした。
知人から今御朱印集めがはやっていると聞き、もともと神社仏閣には興味がありましたので、始めることにしました。
京都・奈良には若い頃よく行ったのですが、東京のお寺は東京大空襲によりほとんど焼けてしまっています。
ですからその頃東京の寺院を巡ったことは、ほとんどありませんでした。
そんな中でこの護国寺は、江戸時代の姿を残す貴重な寺院の一つです。
護国寺クラスの寺院だと、京都・奈良・鎌倉だと拝観料を取られますが、東京の寺院・神社は拝観料を徴収しているところはほとんどありません。(宝物殿などは有料です)
参拝日2021年10月5日
▼目次
沿革
護国寺の創建は、天和元年2月(1681年)のことです。
「犬公方」と呼ばれた五代将軍徳川綱吉が、生母「桂昌院」のために当寺を建立しました。
上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当であった、大聖護国寺の亮賢僧正を招き当寺を開山しました。
護国寺の土地はもともと幕府所属の高田薬園の地で、この地に堂宇を建立し寺院としたのです。
ご本尊は、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像です。護国寺は正式には、神齢山悉地院護国寺と言い、江戸時代には寺領三百石を賜っていました。
翌年の天和2年には、堂宇が完成したと言いますから、おそるべき突貫工事です。
木造建築の宿命ですが、明治16年と大正15年の火災で堂宇の多くを失っています。
幸に観音堂(本堂)は、焼失を免れ元禄以来の姿を今に残しています。
綱吉の母桂昌院はあまり身分の高い家の出ではなく、三代将軍家光に見染められ綱吉を生むことによりその地位を高めています。
護国寺は幕府の祈願寺でしたので江戸時代には栄えていたのですが、明治時代になると後ろ盾を失い苦境に立たされてしまいます。
江戸時代には5万坪の寺域を持っていましたが、東側の2万5千坪を宮家の墓所として提供しています。また西側の敷地5千坪を、陸軍用墓地として提供し寺院の敷地は、2万坪に縮小してしまいました。
大正時代になると、実業家にして茶人の高橋義雄 (箒庵)の尽力により、護国寺は再び整備されています。
特筆すべきは、滋賀県の園城寺にあった月光殿(重要文化財)を、護国寺に移築したことです。
その他この時代(大正から昭和初期)には、5つの茶室、多宝塔、不老門などを建設し現在の形がほぼ出来上がったのです。
ご本尊とご利益
境内Pick Up
▼山門
仁王門
元禄10年に建立された観音堂より後に作られたといわれるのが、この仁王門です。
正面に金剛力士像が右側に阿像・左側に吽像が鎮座し、背面には右側に増長天・左側に広目天が配置され、寺院をお守りしています。
南北線の護国寺を出るとすぐこの仁王門があるので、迷うことのなく護国寺に行けます。
護国寺の隣には、日大豊山高校があります。ちなみに護国寺は、真言宗豊山派の大本山です。
不老門
仁王門をくぐり少し行くと、急こう配の階段がありその頂上にこの不老門があります。
この仁王門は、元禄の建物ではなく昭和13年(1938年)4月建立されたものです。
この門は京都の鞍馬寺の門を、モデルにして作られたものです。
門の扁額の「不老」は、徳川第16代家達により書かれたものです。
惣門
門の形式としては、寺院の形式ではなく武家屋敷の門の形式になっています。
この門は将軍綱吉と生母桂昌院が、御成りになるときに使われていた門です。
恐らく江戸時代には庶民は、通ることができなかったのでしょうね。
武家屋敷の門としても、現在にこれだけの門はあまり残っていないでしょうね。
▼水屋
仁王門をくぐると、石段の前の両側に水屋があります。
この水屋の水盤は、元禄時代からのものです。
▼観音堂(本堂)
東京の多くの寺院は、火災や空襲により焼失してしまっています。その中で、護国寺の観音堂は数少ない元禄時代の面影を残す、貴重な建造物です。また観音堂は都区内の木造建築物では、最大の建物です。
元禄時代は世相も安定し、江戸時代のピークと言える時代です。この時代の将軍綱吉が、母桂昌院のために元禄10年(1697年)正月に建立の幕命を出し、なんと半年後の8月には落慶供養の式典を挙げた言うから驚きのスピードです。
今ならブラック企業と言われてしまいますが、将軍の権力は絶大だったので誰からも文句は出ませんね。
その当時の職人さんの血と涙の成果が焼失せず、現代まで残っていることに安堵してしまいます。
護国寺の観音堂は優雅な感じがして、心を和ませてくれますのでぜひ見てほしい建物です。
この観音堂のご本尊は、桂昌院の念持仏であった唐物天然琥珀の如意輪観世音菩薩が安置されています。
この観音像は、秘仏で見ることはできません。
如意輪観音と言ってピンと来ない方に、参考写真を掲載しておきます。
photoACよりお借りした写真で、講山神社の如意輪観音だそうです。如意輪観音の特徴は、右ひざを立てそこに肘をついて頬杖をしている独特のポーズです。
如意輪観音の六本の手は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六つの世界をそれぞれ救うことを表しています。(上の参考写真では、5本の腕しか判別できませんね)
この写真では判りにくいのですが胸の前にかざした手には、如意宝珠というものを持っています。この如意宝珠は、様々な願いをかなえてくれる珠です。
やはりわかりにくいのですが、左手には輪を持っています。この輪は、輪宝と言って仏法が世界の隅々までに巡ることを表しています。
如意宝珠と輪宝を手にした観音様なので、如意輪観音と呼ばれるのです。
▼多宝塔
滋賀県の石山寺の国宝多宝塔をモデルに、昭和13年に建立されたものです。
国宝をモデルにしていますので、どこかで見たことがあるような気がします。
そう昔の4円切手に、石山寺の多宝塔が描かれていました。
現代の建物とはいえ、80年以上たっていますとそれなりに歴史を感じます。
▼太師堂
太師堂は、不老門をくぐり参道を右に曲がったところにある、静かなたたずまいのお堂です。
この大師堂は元禄14年(1701年)に再営された旧薬師堂を、大正15年以降に大修理し現在の位置に移築したものです。
余分な装飾をそぎ落とした、シンプルなお堂です。
▼鐘楼
鐘楼は大師堂の左側から、昇ったところにあります。
この鐘楼も江戸時代に作られたもので、袴腰付重層入母屋造りという形式です。
この形式の鐘楼は大きな寺院ではよく見かけるのですが、都内の寺院ではほとんど現存していません。
梵鐘は、天和2年(1682年)に寄進されたものです。
下からではわかりませんが、梵鐘の銘文には将軍綱吉の生母桂昌院が観音堂建立した事情が書かれているそうです。
▼薬師堂
元禄4年(1691年)の建立と言いますから、護国寺ができる前からあったお堂ということです。
もともとは一切経堂だったものを移築し、現在の場所に移し薬師堂として使用したものです。
護国寺のHPによると『大きな特徴は、柱間に花頭窓を据えているなど、禅宗様建築の手法をとりいれていることで、小規模ながら元禄期の標準的な遺構として、価値ある建造物である。』とのことです。
真言宗のお寺に、禅宗様式のお堂があるのはこれも珍しいことです。
花頭窓とは、鎌倉時代に禅宗が伝わったとき建築様式も伝わり、禅宗のお寺や茶室などにみられる窓です。写真では、すこし松の木にさえぎられてしまっていますが、松の木の奥にある窓が花頭窓です。
▼忠霊堂
忠霊堂は、明治35年(1902)に建立された建物で、日清戦争で戦死された軍人の遺骨を埋葬しているものです。
▼音羽富士
都内には50基ほどの富士塚があるようですが、先ほども書きましたが寺院に設けられた富士塚はここだけです。
▼境内Pickup
本堂へつながる参道の右側に鎮座しています阿弥陀仏です。
本堂から多宝塔を撮影しました。見事な枝ぶりの松です。
護国寺では2~3匹の猫を見かけました。
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御朱印
初穂料・・・500円
拝観時間 9時から(12時から13時、閉堂)16時まで
奉拝所:本堂(観音堂)内寺務所
周辺情報
護国寺の門前通り音羽通り(都道435号線)を南に行き神田川のところを右方向に行きますと、椿山荘や関口芭蕉庵・肥後細川庭園などがあります。
芭蕉庵・肥後細川庭園は神田川に面していますので、桜の時期は格別です。
基本情報
所在地 | 東京都文京区大塚五丁目40番1号 |
電話 | 03-3941-0764 |
公式HP | http://www.gokokuji.or.jp/ |
山号 | 神齢山 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
寺格 | 大本山 |
御本尊 | 如意輪観世音菩薩 |
創建年 | 天和元年(1681年) |
開基 | 桂昌院、亮賢(開山) |
正式名称 | 神齢山 悉地院 護國寺 |
札所等 | 御府内八十八箇所 87番 江戸三十三箇所 13番 東国花の寺百ヶ寺 東京3番 |
文化財 | 本堂、月光殿、絹本著色尊勝曼荼羅図ほか(重要文化財) |
アクセス | 東京メトロ有楽町線「護国寺駅」下車すぐ |
まとめ
護国寺は、著名人の墓が多くあります。有名なところでは、早稲田大学の創立者大隈重信や明治の元勲山県有朋などが有名です。個人的にゆかりがあるというほどではありませんが、安田財閥の創始者安田善次郎の墓もあります。私は安田善次郎が作った高校の出身です。
数ある著名人のお墓の中でわたしの目をj引いたのが、極真空手の大山倍達氏のお墓です。事前に調べていなかったので、感動してしまいました。なぜかと言うと高校時代に大山倍達をモデルにした漫画、「空手バカ一代」にはまってい他もので!!
ちょうどブルースリーの「燃えよドラゴン」が爆発的なヒットとなり、空前の空手ブームになっていて空手にすごい憧れを持っていました(「燃えよドラゴン」は三回ほど見に行きました)。
大山倍達は、この時代(70年代)の生けるカリスマだったわけですね。ちなみに、「空手バカ一代」の原作者梶原一騎氏の墓所も護国寺にあります。
大山倍達の墓をお参りし、昔を思い出してしまいました。
※記事の情報は、参拝当時の情報となってます。
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