四神相応した「完全風水都市」江戸
平安京が風水理論でつくられた都だと言うことは、多くの人が知っていることですよね。
そして、江戸の街もまた風水の理論により設計された、完璧な「風水都市」なのです。
こういうことを書くと眉をひそめる方もいるでしょうが、実際に家康や天海僧正が風水をベースに江戸の街を設計し、神社・仏閣を移し、水運を造っています。
こういう視点で、都内を散策すると今まで見てきたものが違う風景に見えてくるかもしれません。
風水の考え方は現在の国土交通省でも注目しているのか、「国会等の移転ホームページ」内に風水師李家 幽竹氏が記事を書いています。
現在でも意識され、江戸時代に風水に基づいた都市がどう設計され、それが江戸幕府の安定に貢献したのかを深堀りしていきます。
▼目次
風水とは?
風水は中国古来の環境学であり、自然のエネルギー(気)を調和させることで、人々の生活を豊かにすることを目的としています。
風水の原則は、建物の配置、地形、水の流れなど、さまざまな要素に基づいています。
都を選ぶとき最も重要視されている地形が、四神相応の地とされています。
四神とは、それぞれの方角を守護する神獣のことです。
- 青龍(せいりゅう): 東の方角を司り、水と関連付けられる。
- 白虎(びゃっこ): 西の方角を司り、道や風と関連付けられる。
- 朱雀(すじゃく): 南の方角を司り、火と関連付けられる。
- 玄武(げんぶ): 北の方角を司り、山や水と関連付けられる。
四神相応の地は、理想的な土地として考えられ、平安京は四神相応したまさに理想の都であったわけです。
これを具体的に地形に落とし込むと下記のようになります。
- 東(青龍): 清流や川がある。
- 西(白虎): 道や街道がある。
- 南(朱雀): 広く開けた平地や湿地・池がある。
- 北(玄武): 山や丘陵がある。
江戸の地形
家康は天文、遁甲、方術などの陰陽道の知識に精通していた天海に、伊豆から千葉にかけ居城として最適な場所を調べさせました。
天海は、江戸の地こそが四神相応した理想の地と考え、居城を江戸に定めたとされています。
江戸の四神相応は、下記のようになります。
- 青龍: 東に流れる隅田川が青龍にあたり、水の勢いが江戸の繁栄を支えました。
- 白虎: 西には東海道が走り、人や物の往来が盛んに行われました。
- 朱雀: 南には江戸湾が広がり、海の恵みをもたらしました。
- 玄武: 北には富士山が位置し、江戸の人々にとって信仰の対象であり、都市の背後を固める存在でした。
北の山は研究者・著者により相違があり、江戸内にある神田山を指す著書もあれば、富士山を当てはめる著書もあります。
皆さんもご存じの通り富士山は北から少しずれていますが、天海は意図的に富士山を北に見立て、江戸城の配置や大手門の向きなどを調整したとされています。
鬼門・裏鬼門
風水や家相では鬼門と裏鬼門を、不吉の方角として注意しています。
鬼門とは、北東の方角のことです。丑(うし)と寅(とら)の方角を合わせたもので、丑の角と寅の牙が鬼の姿に見えることから、鬼が出入りする門とされ、鬼門と呼ばれるようになりました。
裏鬼門とは、鬼門と真反対の南西の方角のことです。鬼門と同様に、陰陽のバランスが不安定な場所とされ、不吉なことが起こりやすいと考えられてきました。
鬼門に寺院を建てるのは、「鬼門封じ」と言う意味があったようです。
江戸では鬼門の位置には寛永寺、裏鬼門には増上寺が立っています。
よく知られた話ですが、平安京では鬼門の位置に比叡山延暦寺が建てっています。
江戸の鬼門に建っている寛永寺は、山号を「東叡山」と言います。
文字を見るとすぐにわかりますよね、寛永寺は東の比叡山なのです。
そして、歴代の寛永寺の門主は、寛永寺だけでなく天台宗・延暦寺・日光・出羽三山の住職をも兼務していました。しかも天海以降の歴代門主は皇族が務めています。
裏鬼門には、徳川家の菩提寺である増上寺が置かれ二代将軍秀忠が祀られています。
上の地図を見てもらうとわかりますが、上から寛永寺、神田明神、将門塚、増上寺が一直線に結ばれています。
もう一つ見どころは、神田明神と江戸城、山王日枝神社もまた一直線で結ばれています。
山王日枝神社は、太田道灌の時代から江戸城内にあった鎮護神でしたが、幕府直轄の神社となり「城内鎮守の社」として現在の位置に移されています。こちらの神社は、幕府直轄の最高格式の神社だったわけです。
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江戸の街並みと風水
平安京や平城京は碁盤の目をした街並みですが、江戸は渦を巻いたような道になっており、まっすぐに江戸城にはたどり着きにくい構造になっていました。
これは江戸城の堀が、「の」の字状に渦巻くように広がっているためです。
これは首都であると同時に、城砦でもあったわけです。
江戸の都市の特徴をまとめると下記のようになります。
- 水路と運河: 江戸には、数多くの川や運河が張り巡らされていました。水は財を呼び込むとされ、また、火災を防ぐ役割も果たしていました。
- 道幅と街路樹: 道幅は、人々の暮らしやすさだけでなく、風水にも配慮して決められていました。また、街路樹は、邪気を払い、街に活気を与えると考えられていました。
- 町割りと家屋: 町割りは、それぞれの町に異なる役割を持たせ、全体としてバランスの取れた街を作るように工夫されていました。また、家屋も、方位や間取りに気を配り、住む人の運気を高めるように建てられていました。
天海は水路の整備に力を入れ、江戸城内には水路が張り巡らされ水の気を巡らせたのでした。
現在の東京は、かつての江戸が水運都市であった面影はほとんど消えています。
日本橋付近にその面影はありますが、銀座の数寄屋橋付近には水路の面影はありませんよね。
明治以降は水運ではなく、鉄道と陸運が主力となり、そのほとんどが埋め立てられてしまいました。
東京の首都としての風水力が削がれてないか心配なところです。
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将門の力取り込んだ?
ここからは作家で建築家の宮元健次氏の説を紹介します。
平将門は、平安時代に「新皇」と称し関東を席巻した人物で、打ち取られ京都にさらし首にされたのですが、首は飛び去り現在の大手町まで飛んできたとされています。
ですから大手町には、現在も将門の首塚がひっそりと祀られています。
天海は霊的力の高い将門の力を借りて、江戸の街を守護することを考えたとされています。
将門をまつる神田明神は、もともとはこの首塚の脇にあったのですが、天海は江戸城の鬼門に当たる現在地に移しています。
その当時江戸には、将門の首だけではなく胴体などをまつる神社や塚が点在していたようです。
その神社や塚を、主要街道と「の」の字型に張り巡らされた堀の交差地に移しているのです。
首塚は奥州道へと繋がる大手門、胴を祀る神田神社は上州道の神田橋門、手を祀る鳥越神社は奥州道の浅草橋門、足を祀る津久土八幡神社は中山道の牛込門、鎧を祀る鐙神社は甲州道の四谷門、兜を祀る兜神社は東海道の虎ノ門に置かれました。
※宮元健次著「江戸を大都市にした天海が、街に仕込んだ「秘密の仕掛け」」より引用
参考文献:【中古】 江戸の陰陽師 天海のランドスケープデザイン/宮元健次(著者)
天海は、家康・秀忠・家光三代の将軍のブレーンとして、江戸の街に大きな結界を張り守護した人物なのです。
関連記事:神田神社|「平将門」御祭神として昭和に復活!!
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まとめ
これは偶然かもしれませんが、四神相応した都市を都とした平安時代が約400年、江戸時代が265年間続いています。
この長期に安定した理由は、もちろん風水だけではなく安定した政治体制があったからでしょうが、その基盤に風水があったからかもしれません。
東京を散策するときに、この寺院・神社がなぜここに建っているかを知るのも知的満足度を高めてくれます。
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