成願寺:中野長者ゆかりの寺院

2021年6月2日

成願寺

成願寺じょうがんじは地下鉄丸ノ内線・大江戸線の中野坂上駅を下車し、山手通りを渋谷方向へ歩いて3分ほどのところにあります。

歩いて行くと大きな達磨大師の絵が、壁に書いてあるのですぐわかります。


クリックすると拡大します。

達磨大師は、莫妄想まくもうぞうと賛された高僧です。莫妄想と言われてもよくわかりませんよね。意味は、「つまらないことを想わず黙って座れ」ということで、座禅が重要だということです。そして、悟りを得るためには、考え・常識的な心を手放せというような意味ですかね。

参拝日2021年4月27日

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▼目次

  1. 沿革
  2. ご本尊と諸仏
  3. 境内Pick Up
  4. 御朱印
  5. 周辺情報
  6. 基本情報
  7. まとめ

沿革

成願寺は、今から600年ほど前の応永年間(1394~1428)にこの地に住んでいた鈴木九郎という人物により建立された寺院です。

寺院建立の説話はとても伝説的な部分が多く、鈴木九郎は中野長者と言われ物語の主人公のような存在です。

九郎の時代には、新宿と中野の区界のこの地域は荒れた土地で、九郎は苦労して田を耕し馬を育てたといいます。

その育てた馬を千葉の馬市に出したところ、思わぬ高値で売れました。

馬市に行く途中浅草の観音様に馬が売れるように願い、その売れたお金の中に「大観通宝」が混ざっていたらそれはすべて観音様に差し上げると祈りました。

「大観通宝」は中国の宋時代の銭で、日本でも流通していました。

馬は高値で売れたのですが、受け取った金銭はすべて「大観通宝」でした。

九郎は迷った挙句、約束は守らないといけないと儲けたお金をすべて観音様に寄進してしまいました。

物語では、帰宅してみると九郎の家の中には黄金で満たされていたそうです。

黄金で満たされていたかは分かりませんが、九郎は働き財を成していき、ついには中野長者と呼ばれるほどになっていきます。

九郎の財はついには屋敷に置ききれないほどになり、人を雇ってその財を運ぶようになります。

荷物を運び出すときは従者がいるのですが、帰りに橋を渡って戻ってくるのは九郎一人だったといいます。(隠し場所を知っている者を口封じしたということですよね)

この地には今でいうところの神田川が流れていて、川には現在「淀橋」と言いますが橋が渡されています。その当時人々は、この橋を「姿見ずの橋」と呼ぶようになっていました。

悪が栄える試しなしで、九郎にはやがて大きな罰が当たるのですが、直接本人ではなく愛娘の小笹に降りかかってしまいます。

小笹の婚礼の夜ものすごい雨と風が吹き荒れ、小笹は蛇と化し熊野十二所権現近くの池へと飛び込んでしまいました。

困り果てた九郎は、相州最乗寺の春屋宗能しゅうおくそうのう禅師に祈祷をお願いしました。暴風雨はたちまちに止み、池から蛇が姿を表したちまちに娘小笹の姿へと戻りました。

これでめでたしと思ったところ、一転にわかに紫の雲が立ちこみ娘は雲に乗って天に昇ってしまいました。

小笹は、二度と地上に姿を見せることはなかったと言います。

九郎は今までの悪行を悔い改め、十二社池の近くに御堂を立て、九郎自身も出家して名を「正蓮」としました。

十二社池のほとりに建てられた御堂は、正観寺と名付けられますが、これは娘小笹の戒名が真窓正観禅女からきています。

それから時代が下り江戸時代の寛永5年(1628年)に十二社より現在地に移り、寺名も成願寺となっています。

現在地は九郎の屋敷跡と言われ、旧九郎邸に移転し願いがかなったとして成願寺と改称されました。

成願寺のパンフレットには、18歳で亡くなった小笹の供養のために春屋宗能禅師を招いて供養したとなっていて、小笹が蛇になったというくだりは書いてありません。

中野長者のお話は、各地に伝わる朝日長者伝説の流れから作られた話だと思われます。

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ご本尊と諸仏

 ご本尊 釈迦牟尼仏・・鎌倉時代の木像仏で、檜材・寄せ木造りで玉眼を持っています。川庵宗鼎せんあんそうてい大和尚定住(1476年)時代、最乗寺より下賜されたものとされています。
諸仏 観音菩薩

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境内Pick Up

龍宮門(山門)

成願寺山門
成願寺は曹洞宗の寺院ですが、この山門は鐘楼しょうろうを階上に備えた、黄檗風龍宮門になっています。日本の寺院では、珍しい山門です。

同じ禅宗の黄檗宗ですが、江戸時代に隠元によって伝えられたもので、鎌倉時代に伝えられた曹洞宗や臨済宗のように日本化されていないのが特徴です。基本的な教義は、臨済宗と同じものです。

石仏


山門わきに鎮座しています石仏群です。お地蔵様のようにも見えますが、座像なので違うかもしれません。

中野長者鈴木九郎墓所

中野長者屋敷跡墓石

中野長者屋敷跡碑
クリックすると拡大します。
鈴木九郎の墓所と、屋敷跡を示す石碑です。ただ屋敷跡を示すような遺物は特にないようです。

圓通閣えんづうかく(百観音堂)


九郎は浅草の観音様に祈り財を成したことから、観音様との縁はとても深いものがあります。

西国三十三ケ所・坂東三十三ケ所・秩父三十四ケ所の合わせて百の観音霊場の御本尊と、同じ姿の観音様が安置されています。

江戸時代には富士講や四国のお遍路などが流行りますが、庶民が現代のように自由に巡礼できるような時代ではありませんでした。そこでレプリカのような霊場・寺院で、近くで簡単に巡礼する所がもてはやされました。

江戸時代中期には、百観音霊場として多くの江戸庶民たちの信仰の場となっています。

開山堂


この開山堂内に安置されている開山像の胎内には、小さな骨片が安置されていました。これを東京大学名誉教授鈴木尚氏が鑑定したところ、男性と若い病弱な女性の遺骨と鑑定されています。

この遺骨は、九郎と小笹のものと推定されています。

本堂(法堂)


本堂の扁額には「大雄宝殿」と書かれています。向拝の柱には、左右に細長い板の掛け飾りに文字が書かれています。この板を「れん」と言います。

「大雄宝殿」や「聯」などは、やはり黄檗宗の寺院に多く見られるようです。曹洞宗の寺院ですが、不思議と黄檗宗の影響がみられるちょっと変わった寺院と言えるようです。

鍋島家墓所


鍋島家とは佐賀藩主の家系で、こちらの成願寺には分家の蓮池藩鍋島家の墓碑が安置されています。中野区内にある寺院で、大名家の菩提寺は成願寺ただ一つです。

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御朱印

初穂料・・・300円

受付時間:不明

寺務所:本堂右側、洗心閣右側入り口。小さな鐘がありますからそれを叩くと応対してくれます。


御朱印は書置きですが、お寺の方が御朱印帳に張り付けてくれました。しおりと、膏薬のサンプルと寺院のパンフレット2通を一緒に頂きました。


上のスタンプは、本堂のところで押せます。

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周辺情報

成願寺の南側には、東京工芸大学があり多くの若者がお寺の前を歩いていました。

最寄り駅の中野坂上の駅から、青梅街道を荻窪方面に2分くらい歩くと宝仙寺という中野区最大級の寺院があります。

こちらの寺院は、源義家(八幡太郎)創建ですから、平安時代からある寺院です。もともとは阿佐ヶ谷の世尊院の位置にあった寺院ですが、室町時代にここへ移転してきています。

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基本情報

所在地 東京都中野区本町2丁目26-6
電話 03-3372-2711
公式HP https://www.nakanojouganji.jp/index.html
山号 タ宝山
宗派 曹洞宗
寺格
御本尊 釈迦如来
創建年 永享10年(1438年)
開基 鈴木九郎(中野長者)
開祖 川庵大和尚
正式名称 曹洞禅 多宝山 成願寺(じょうがんじ)
札所等
文化財 蓮池鍋島家の墓
アクセス 地下鉄 丸ノ内線 ・ 大江戸線 「中野坂上」駅下車

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まとめ

中野長者の足跡を追って、十二社熊野神社と成願寺を巡ってみました。

多くの本には鈴木九郎は、紀州から出てきたと書いてあります。成願寺のパンフレットによると、紀州から出てきたのは祖先の鈴木三郎重家という人物でした。重家の子孫は奥州で暮らしいていたのですが、中野坂上付近に流れてきて九郎の時代に大いに繁栄したようです。(九郎の時代に住み着いたのかは記載がありませんでした。)

鈴木九郎は、武士でも官吏でもなく公の記録には出てなく、伝説的な話のみが残っています。

室町時代の応永年間はとても平和な時代で、この後に起こる関東の争乱の時代とは全く違った時です。

鈴木九郎には娘が一人しかいないとされていますから、子孫はいないのですかね?知りたいところです。

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※記事の情報は、参拝当時の情報となってます。

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