消えた豊島一族の痕跡を散策

2021年6月8日


豊島氏と聞いてピンと来る人は、相当の歴史通だと思います。でも豊島氏の痕跡は、豊島区や豊島園(2020年閉園)といくつか残っています。

地名の由来が豊島氏にあるのではなく、豊島郷を所領した平家の支流の一族が豊島氏を名乗ったのが事実です。

源氏や平氏の姓を名乗れるのはその一族の本宗家のみで、支流の一族は地盤としている土地の名称を名字として名乗っています。

鎌倉以降の将軍は源氏から出るのが通例ですが、「源」の姓を名乗っているのは鎌倉三代の将軍のみです。

徳川家康の正式な名は、徳川次郎三郎源朝臣家康(とくがわじろうさぶろうみなもとあそんいえやす)と言い「源」の姓が入っています。

当時の正式な文章のサインには、源家康と書かれたものがあります。

話がいきなり脱線しましたが、豊島氏は関東の平氏一門である秩父氏の支流です。

現在の地名感覚だと豊島郡イコール豊島区と想像してしまいますが、その範囲は広く現在の千代田、中央、台東、文京、荒川、北、板橋、練馬、豊島、新宿区あたりすべてもしくは一部にまたがる地域を指します。

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▼目次

  1. 豊島氏の歴史
  2. 関東動乱
  3. 長尾景春の乱
  4. 太田道灌VS豊島一族
  5. 飛鳥山・王子神社
  6. 平塚城跡・平塚神社
  7. 石神井城跡・周辺寺社
  8. まとめ

豊島氏の歴史

豊島氏は、平安末期から室町中期まで400年間ほど豊島郡を中心に勢力を持っていた豪族です。

豊島氏の支配地域は、都内の北区・練馬区を中心に板橋・杉並・中野・新宿・豊島・文京・荒川・足立・葛飾区の一部などです。先に述べた豊島郡と少し違います。また豊島氏が所領していた地域は、時代により変わっています。

豊島氏は、先にも書きましたが桓武平氏の流をくむ一族です。桓武平家は、平安京を造った桓武天皇曾孫ひまご(もしくは孫)平高望を祖とする一族です。

このころの慣例では、上級国司は任地に赴かないのですが、高望は任地に赴き息子たちは土着していきます。高持の子孫たちは、坂東八平氏と言われ、関東でそれぞれ勢力をつけました。

豊島氏は、坂東八平氏の一つ秩父氏の流れを汲みます。秩父氏は、高望の五男平良文の孫である将恒まさつねを祖とする一族です。

詳しいことはわからないようですが、秩父氏の支族が入間川を下り豊島に土着します。そして、「豊島」を名乗る一族が出てくるのですが、その時期に関しては史料的に定かではありません。

江戸時代の文献には、将常まさつねが治安3年(1023年)に武蔵介藤原真枝を討ちその武功により豊島郡を拝領したとの記述があります。

豊島家の祖とされる平将恒と読みが同じですが、将恒と将常とが同一人物かは特定されていません。ただ良文の孫であるとされれていますので、同一人物の可能性は高いでしょうね。

将常の息子武恒たけつねもしくは孫の常家つねいえの代には、豊島姓を名乗っていたと考えられています。ただ、『桓武平氏諸流系図』という文献では、常家の子康家が初めて「豊島」を名乗ったとされています。ただ言えることは、11世紀ごろには、豊島家が成立しているということです。

このころの豊島家は、現在の北区王子から上中里周辺を拠点としていました。この地域は9世紀ころには、郡衛があり政治的拠点の一つでした。

豊島氏は入間川を下りこの地域に至ったり、この王子地域には石神井川があり、水運をつかさどる一族であったとされています。

文献上豊島家の初代とされる、康家の子供清元は源頼朝の挙兵に従軍していることが鎌倉幕府の公式記録の「吾妻鏡」に出てきます。清元とその息子葛西三郎清重は頼朝の信任が厚かったとの記述もあります。

鎌倉時代の豊島氏は、王子付近に「豊島荘」と呼ばれる荘園経営をしていたとされます。

鎌倉幕府の北条氏も平家一門であり、豊島家本宗家は鎌倉幕府とは近い存在として栄えていました。

鎌倉幕府の重要な御家人である豊島家ですが、元弘3年(1333年)新田義貞が討幕の挙兵をすると秩父平氏(豊島・江戸・葛西・河越氏など)はこれに加わり幕府を倒しています。

建武の中興と言われるこの動乱は3年で頓挫しますが、豊島氏は足利側につきこの時代をうまく乗り切っています。

室町期になると、王子一帯の支配から石神井郷支配へとその軸足が移っていきます。

室町時代の初期は、南北朝の動乱や尊氏・直義兄弟の相克などあり関東もまた戦乱に明け暮れていました。平姓秩父氏は河越氏や豊島氏を中心として「平一揆」を形成し、武士団連合として共闘していきます。

この動乱は、尊氏側の勝利に終わり「平一揆」の力は鎌倉幕府創世時のように力を増していきます。

直義側の武将であった上杉憲顕は、一時期越後に逃れていましたが、動乱終息後関東管領として関東に復帰してきます。

上杉憲顕と平一揆は深く対立し、応安元年(1368年)についに戦闘が起こってしまいます。

この戦いは上杉側の勝利となり、平一揆の河越氏など大半の一族は滅亡しています。

豊島氏はかろうじて存続しますが、石神井の領地などを没収されています。

この戦いの後上杉氏の勢力は増大し、関東執事(のちに管領を名乗る)の職は上杉氏により独占されるようになります。

本来関東管領は鎌倉公方の職制でしたが、上杉氏が力をつけ足利氏と対等の力を持つようになります。上杉氏の本来の役職名は執事という呼び名でしたが、管領を名乗り本来の管領である鎌倉公方の足利氏は「鎌倉殿」とか「鎌倉御所」と呼ばれるようになります。

関東の権力構造は、鎌倉公方と上杉氏による二重構造へとなっていきます。

滅亡を免れたとはいえ勢力の落ちている豊島氏は、どちらかの下に入るしか選択肢はありません。

文献から見ると豊島本宗家は上杉氏側を選択し、その中で生き残りをかけたようです。

上杉側に恭順したためかは分かりませんが、応永2年(1395年)豊島泰宗の時代に石神井の領地が約30年ぶりに返還されています。

この後豊島氏は王子付近にあった拠点を石神井へ移し、石神井城・練馬城と築城していきます。


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関東動乱

鎌倉公方と上杉氏の対立は半世紀以上対立の種はくすぶり続けていましたが、永享10年(1438年)ついに戦いの火ぶたが切って落とされました。

戦いは足利持氏の自害により収束しますが、北関東では抵抗が続き戦乱は終息しませんでした。

事態終息のため幕府は、持氏の息子の成氏を5代目の管領につけ調停しようとしました。

しかし勝者上杉側は成氏に管領を名乗らさづ、自らが管領を名乗り、家臣の長尾・太田氏に執事を名乗らすありさまになります。

代が変わっても両者は和睦することなく小競り合いが続きますが、享徳きょうとく3年(1454年)に成氏が管領上杉憲忠を殺害するに至り、再度全面戦争となります。これを享徳の乱と言い、約28年にも及ぶ長い戦いへと発展していきます。

当初は成氏側が有利に戦を進めますが、幕府側は今川範忠をを参戦させ戦の趨勢を逆転させます。成氏は防衛線を下総の古河まで下げ、そこに居城を築き以後「古河公方」と呼ばれるようになります。

豊島本宗家にも両者から参陣の命が出ていますが、文献に出てくるところでは上杉側に付いたと推測されています。

一方他の豊島一族の諸家は分裂し、成氏側にも上杉側にも付く支族が出ていたようです。

話はいったん豊島氏の話から、戦局全体の話へと移ります。この戦は混とんを極めていき、上総下総に君臨する大豪族千葉一族の動向が、この戦のキーパーソンとなっていきました。

その千葉氏は内部分裂し、本宗家の千葉胤直は上杉側に付きますが、一族の馬加康胤まくわりやすたねは古河公方側に付きます。この内紛は古河公方側についた馬加康胤の勝利に終わり、千葉氏側は古河公方側へと寝返ります。

上総下総は現在の千葉から茨城県の一部の地域ですが、上杉側としては対千葉氏への防衛線を築かなければならない事態となったわけです。

上杉家の家宰太田道灌は、江戸城を築き対千葉氏の防衛線を構築していきます。

ここで関東の勢力分布を整理すると、古河公方側は上総・下総・安房(以上千葉県及び茨城県の一部)・下野(栃木県)・常陸(茨城県)・東上野(群馬県東部)を支配し、幕府・上杉側は相模(神奈川県)・武蔵(東京・埼玉県)・上野(群馬県)西部と言う状況になっていました。

劣勢な幕府・上杉側は、江戸城と河越(川越)城を防衛ラインとしてここを死守していきます。

ここで問題になるのが、河越・江戸間に存在する在郷の豪族豊島氏です。上杉氏に恭順の姿勢を見せている豊島氏ですが、在郷の勢力は決して家臣ではありませんからいつ裏切るか分かりません。

道灌は江戸城の勢力圏と豊島一族の勢力圏の境に、多くの神社や仏閣を造り防衛ラインを広げていきます。ちなみにこの時代の寺社仏閣は、砦としての役割を持っていました。

道灌にとって厄介だったのは、川越と江戸を結ぶ川越街道の途中に豊島氏がいることでした。街道を握っている豪族は、関を設けて収入を得るのがこの時代の常識です。

また江戸城の脇を流れる平川(現在の神田川)の支流の妙正寺川・善福寺川の源流付近もまた、豊島氏の領地でした。


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長尾景春の乱

豊島氏は、滅亡する文明10年(1478年)の5年前までは、上杉氏の下で大田道灌と共に戦っていました。

鎌倉時代には有力御家人であった豊島氏ですが、室町時代になると相対的にその地位は低くなり幕府の直臣でなく、その下の管領の下に付く地位に甘んじています。

勢力圏も徐々に道灌に侵食されていきますが、上杉という巨大勢力へ単体で挑むことはまた不可能でした。

ただその上杉氏の内部は一枚岩ではなく、権謀術数が渦巻く混とんとした内部事情でした。室町幕府の創始者足利尊氏の母は上杉家の出身で、室町前・中期は上杉家の力は絶大なものがありました。

権力の絶頂にあった上杉家ですが、享徳の乱以後は扇谷上杉山内上杉とに分裂しお互いにけん制し争うようになっていきます。

両上杉家の対立の中さらに、山内上杉家の執事である長尾家が相続争いから上杉家を巻き込む内紛が勃発します。これを「長尾景春の乱」と言います。

山内上杉の顕定は、長尾家の相続を嫡子である長尾景春白井長尾家)にではなく総社長尾家忠景に継ぐがすという裁定を下しました。白井長尾家と総社長尾家はここもまた対立関係にあり、この跡目相続は大きな遺恨を残すことになります。

文明8年(1476年)道灌が駿府今川家の内紛鎮圧のため江戸を離れると、長尾景春はついに鉢形城で蜂起し内紛が発生しました。

豊島一族は対古河公方との合戦では、白井長尾家の軍に所属し戦っていました。

「長尾景春の乱」は、山内上杉家を二分する内乱となり、敵の敵は味方と古河公方成氏も景春を支援しています。

白井長尾家の軍下にあった豊島泰経もまた、景春側で戦うこととなりました。後世にできた話では、景春の女兄弟が泰経の妻だったという話まであります。

上杉家最前線の司令官が太田道灌であり、道灌と隣接する長尾景春側の豪族が豊島泰経であったわけです。

こうして太田道灌VS豊島一族の戦いは不可避となってしまいました。

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太田道灌VS豊島一族

文明9年には、豊島氏は江戸城に対抗する城もしくは砦を構築し、川越街道を封鎖する処置をとります。この川越街道封鎖は、古河公方側からの指示だと考えられています。

川越街道封鎖により、道灌を此処に至り豊島家討伐を決意しました。文明9年3月14日道灌は、相模から扇谷上杉軍を呼び寄せ、この軍を後詰めとし道灌軍本体が豊島家討伐として軍を進める計画を立てます。

しかし、おりからの大雨のため、上杉軍は相模から多摩川を渡ることができなくなりました。そこで道灌は、相模にいる景春側に与する者たちを殲滅していきます。

江古田原の合戦

文明9年4月13日に道灌は対豊島征伐の軍を動かし、まず豊島泰経の弟豊島泰明が陣取る、豊島城(一説では平塚城)を急襲します。道灌は豊島場周辺に火を放ち、退却します。その知らせを聞いた、泰経は石神井城より出陣し、江古田原にて両者は激突します。

これが「江古田原の合戦」と言われるものです。名将と言われる道灌は、いったん退却すると見せかけこの江古田原に軍を潜ませていました。誘い出された泰経・泰明兄弟はこの伏兵により大惨敗を喫し、弟泰明はこの戦いで戦死しています。またこの戦いでは、赤塚氏・板橋氏など有力支族も討ち死にしています。

泰経は豊島城を放棄し、全軍を石神井城へ集め籠城の構えを見せます。

石神井城陥落

「江古田原の合戦」で勝利した道灌は、一気には石神井城を攻略せず一旦現在の杉並区後輩周辺の豊島氏の勢力滅ぼしていきます。後背の憂いを取り除くと、現在早稲田高等学院のある当たりの「城山」に布陣しました。

石神井城を一気に攻めなかったのは、善福寺周辺に残っていた豊島氏の勢力と、石神井城の本体とに挟撃されることを避けるために先に力の弱い善福寺周辺を攻撃したと推測されています。

これを裏付けることは、杉並区の善福寺池にあった善福寺の僧侶が、道灌に抵抗したため堂宇すべて焼かれたという記録や、善福寺城という豊島氏側の城があったともされています。

城山に陣取った道灌は和睦を申し入れ、泰経側もこれを受け入れ城を取り潰すことで、和睦は成立しました。

しかし、豊島氏側は城の取り壊しを伸ばしほとんど作業を進めず、和睦から三日目に道灌は総攻撃をかけています。

石神井城は南に石神井川がありそこから攻め込むことはできない設計になっており、城の守りの主力は東に向いていました。

道灌は石神井川の上流から渡河し、守りの薄い西側から石神井城を攻略しあえなく石神井城は陥落してしまいます。

明治時代にできた小説では討ち死にした豊島泰経の後を追って、娘の照姫が三宝寺池に入水したという悲話はこの時の合戦を題材にしたものです。

小説と違い泰経は石神井城を脱出して、平塚城(北区上中里)で再起を期しますがやはり道灌に阻止され、その後行方不明になっています。

ここに豊島本宗家は、滅亡してしまいます。

一説には、泰経の子康保は小田原北条に仕えたといわれています。康保を祖とする一族は、武田家・徳川家に仕え旗本となり明治まで続いています。ただ家系図にはいろいろな疑問があり、旗本豊島家武蔵豊島家(豊島本宗家)の直系かは定かではありません。(江戸時代の大名・旗本は、名家の子孫であると家系図を造り変えています)


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飛鳥山・王子神社

北区の飛鳥山及び谷を隔てたところにある王子神社は、もっとも初期に豊島家が拠点とした地域です。王子に流れている音無川は、石神井川の別名です。

飛鳥山

飛鳥山公園

飛鳥山の地名の由来は、豊島氏が熊野の飛鳥明神を祀ったことが由来とされています。

付近には豊島一族の滝野川氏の城があったとされていますが、遺構などは発見されていません。(現在は、北区立滝野川公園があります。)

飛鳥山は、石神井川(この付近では音無川)に隣接していますので、その関連性は高いと考えられています。

王子神社

王子神社

元亨2年(1322年)に豊島氏が、熊野の若一王子じゃくいちおうじを勧請して作られた神社です。

当時の荘園経営は、京都の貴族や寺社仏閣が本所として持ち、現地の豪族が経営にあたっていました。

この地域の本所は京都の「新熊野神社」で、豊島一族が実質支配していました。

王子神社は、豊島氏と熊野信仰が密接であったことの現れです。

王子神社の境内にある、銀杏の古木は豊島一族が支配していたころからあるものです。

この大銀杏は、天然記念物として東京都指定文化財となっています。

王子神社大銀杏

関連記事:王子神社|子育て開運だけでなく、髪の悩み解消?


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平塚城跡・平塚神社

豊島泰経が最後の抵抗をしたのが平塚城ですが、平塚城は豊島氏のもっとも初期の居城です。

ただその所在地は不明で、現在の平塚神社がそのあとだと考えられていますが、遺構などは発掘されていません。

初期の平塚城と、泰経が最後にこもった城とは位置が違うとされ、泰経の時代の城は七所神社付近にあったとも考えられています。

平塚神社

平塚神社
豊島氏の、初期の居城は現在の平塚神社当たりであったと推定されています。飛鳥山からこの平塚神社にかけての一帯は、豊島氏の居城があったとされますが、発掘された確実な遺跡がなく史料的な部分での検証しかされていません。

この平塚城初期の城主は「豊島太郎近義」とされています。近義は、前九年の役で勝利し凱旋した八幡太郎義家こと源義家と弟義綱・義光を歓待し、義家から鎧を下賜されたとされています。後三年の役の後も義家は、近義の館に立ち寄り歓待に感謝し下賜品を出しています。

豊島氏はこの甲冑を神社の裏手に塚を造り奉納し、甲冑塚としました。この塚が、平面であったため平塚という地名になったとされています。

豊島氏は源氏とのつながりを強くし、鎌倉時代には有力御家人としての地位を築いています。

関連記事:平塚神社:豊島氏終焉の地

城官寺

城官寺
平塚神社の元別当寺で、一説では平塚城の跡地はこの城官寺あたりではと言われています。

城官寺は、平塚神社脇の蝉坂から小道を入るとすぐにあります。

関連記事:城官寺:豊島氏初期の居城平塚城跡

七社神社

七社神社
豊島氏最期の本宗家である豊島泰経が最後に抵抗した平塚城は、こちらの七社神社の地にあったとする専門家もいます。

豊島泰経が対太田道灌対策として、「新たに城を築いて」との記載があります。七社神社周辺が城跡と比定されますが、遺跡等は発掘されていません。

関連記事:七社神社:渋沢栄一ゆかりの神社

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石神井城跡・周辺寺社

石神井城は、豊島本宗家終焉の地と言えます。小説と違い豊島泰経はこの地で討ち死にしていませんが、再起をかけて太田道灌に抵抗しますがその最期は不明となっています。

石神井城跡

石神井城跡

石神井城説明文2

戦国後期の時代と違い、城跡と言っても石垣などが残っているわけではありません。

石神井城跡は、三宝寺池の南側にあるこんもりとした丘といった感じです。

石神井城は文明9(1477年)年に、太田道灌に攻められ落城しています。

築城は「豊島泰景」とされ、詳しい築城年代は不明ですが鎌倉末期ごろと推定されています。

石神井周辺の所領は、宇多氏から婚姻関係を経て宮城氏そして豊島氏へと譲渡されています。

城として最も整備されたのは15世紀半ばで、道灌との緊張状態が高った時代です。豊島氏は、江戸城築城時期に対抗として整備を進めたと考えられています。

石神井城は台地の上にあり、その規模は南北約100~300メートル・東西約350メートル、面積3万坪に及ぶと推計されています。

城の北側に三宝寺池、南・東に石神井川を要し天然の水堀により守られた要塞で、西側のみ人工の防御が施されていました。

発掘調査はたびたびおこなわれていますが、日常品の陶磁器はあまり出土しておらず、生活は別の場所に館があったと推測されています。

穴弁天社

穴弁天
三宝寺池内に厳島神社がありますが、その鳥居の向かい側にあるのが穴弁天社です。

この洞窟は、石神井城からの抜け穴と言われ、その奥には豊島家の財宝が隠されているという言い伝えがあります。

一時期は崩落していましたが、昭和50年に復旧工事がなされています。

石神井氷川神社

石神井氷川神社

社伝によれば応永年間(1394~1428年)ころに、武蔵野一之宮である大宮氷川神社より分霊を勧請して創建されたとされています。

発掘調査では、この周辺に幅10メートル深さ50センチの窪地が発見されており居館跡ではないかとされています。豊島氏の館跡かも知れませんね。

この場所は石神井城跡のすぐ脇にあり、豊島本宗家の館と守り神がここにあったのでしょうね?

関連記事:石神井 氷川神社:石神井城の守り神 氷川神社

道成寺

道場寺本堂

道成寺の創建は、南北朝時代の応安5年(1372年)4月10日に豊島輝時が、大岳禅師を招いて建立しています。

豊島輝時は石神井城主豊島左近太夫影村の養子で、執権北条高時の子で相模次郎時行の息子という経歴の持ち主です。北條(豊島)輝時が、土地を寄進して堂宇を整えこの時から豊嶋山道場寺と号しています。(北條輝時の実在を疑う研究者もいます)

道成寺は豊島氏の菩提寺で、石神井城陥落時に太田道灌により焼き払われています。

寺内には豊島泰経と推定される墓がありますが、南北朝から室町中期のものとされますが埋葬者の特定はされていません。

関連記事:道場寺:豊島氏の菩提寺

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まとめ

豊島氏の足跡をたどってみました。石神井川沿いを約400年あまり支配していた一族なので、数多くの痕跡が石神井川周辺にあります。

今回は、その中でも代表的なところを紹介しました。

豊島氏は歴史の表舞台に出てくる氏族ではありませんし、太田道灌の敵方として語られてしまいます。

栄華から衰退を、たどった一族にスポットを当ててみました。

関連記事:石神井散策:二十三区に残る大自然

※「としま」の表記は、豊島もしくは豊嶋とされていますが、参考にした著書に従いここでは豊島を採用しました。

※本文では分かりやすさを優先し、最期の城主を豊島泰経と表記しました。ただ当時の文献には泰経との表記はなく、「勘解由左衛門尉かげゆざえもんのじょう」とあるのみです。泰経や弟の泰明は江戸期以降の家系図に出てくる名前で、確証があるわけではありません。


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参考文献:決戦 豊島一族と太田道潅の闘い [ 葛城明彦 ]

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