天津神と国津神の違いは?

 高千穂峡 真名井の滝
                                            高千穂峡 真名井の滝
普段何気なく参拝している神社の神々は、分類すると二つの神々のグループに分かれます。

一つが高天原に住むもしくは降臨してきた天皇家につながる神々を、天津神と言います。

もう一方が、もともとこの国いた神様と国譲りをした大国主とその後裔の神様を、国津神と言います。

ただ素戔嗚尊(スサノオノミコト)は、高天原から降りてきた神様ですが国津神に分類されています。

あくまでも日本神話に登場する神々が対象で、外来の神や神格化された人物神はこの範疇には含まれないのでしょうね。

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▼目次

    1. 儒教思想から生まれた天津神・国津神
    2. 天津神とは
    3. 国津神とは
    4. まとめ

儒教思想から生まれた天津神・国津神

元々の日本の神道には、神様に上下の関係を付ける考え方はありませんでした。

あらゆるものの霊魂が神である」(日本人なら知っておきたい神道:武光誠著)と考え、人間・動物・山・川・雨・風などすべての物・事象に霊魂があるとします。

すべての物・事象の霊魂を、人間が祀ればそれはすなわち神なのです。

一神教の絶対神のような神ではなく、ものすごくふわっとしたものが日本の神様です。

5世紀末くらいから中国から儒教が伝来し、中国を模範とした国家体制が整えられていきます。

大王家(天皇家)を中心とした政治体制を権威付けるために、大王家の祖先神を確立し天照大御神を最高神とした神々の系譜が出来ていきます。

中国には「天神地祇(テンジンチギ)」という言葉があります。

天の神である天神は、地上の神である地祇よりはるかに上位の神とされています。

原始儒教では、人々は天の意思に従って生きることを定め、天意を伝え政をするのが皇帝とされています。

初期のヤマト王権では、大王家と各豪族の関係は対等に近い関係でした。

もちろん祭祀を司る大王家は、豪族から特別視はされていました。

次第に中国から儒教などの思想が入り、政治的にも権力が大王家に集中しだし中央封建的国家が成立していきます。

ヤマト王権の祭祀の神は、大和の神々(大物主など)から大王家の祖先神へと変遷していきます。

そして、国内の神々は天照大御神の親族もしくは、大和の豪族の祖先神というヒエラルキーが出来上がっていきます。

ヤマト王権とその配下の豪族が信仰する神々は天津神、その他地方の豪族などが信仰している神々は国津神とし配下へと位置付けられたのです。


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天津神とは

天津神は、人々が行くことのできない天に住まう神々をさし、天を高天原(たかまがはら)と呼びます。

天皇家や大和の有力豪族は、天津神

・別天津神-天地開闢の時に現れた神々

造化三神…天之御中主神、高皇産霊神、神産巣日神
宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神

・神世七代-天照大御神以前に現れた七代の神々

国之常立神、豊雲野神、宇比地邇神・須比智邇神、角杙神・活杙神、意富斗能地神・大斗乃弁神、淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神、伊邪那岐神・伊邪那美神

・主宰神-伊邪那岐神から生まれた三貴神のうちの二柱(三貴神の素戔嗚尊は国津神)

天照大御神・月読の尊(三貴神の一柱)

・その他-天照大御神に使える神や星の神など天にかかわる神々

天忍穂耳命、邇邇芸命、思金神、建御雷神、天手力男神、天児屋命、天宇受売命、玉屋命、布刀玉命、天若日子、天之菩卑能命など


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国津神とは

国津神は、人々が住むところの近くの山に住まう神々。

・素戔嗚尊(須佐之男命)―三貴神の一柱で、高天原から下ってきた神ですが国津神に属します。

・大国主命(主宰神)―出雲の大国主命だけでなく各地方にもオオクニヌシが祀られていたと考えられています。

・大国主命の子孫神

阿遅鉏高日子根神、下照比売、事代主、建御名方神、木俣神、鳥鳴海神

・大国主の配偶神

須勢理毘売命、八上比売、沼河比売、多紀理毘売命、神屋楯比売命、鳥取神

・その他
伊弉諾尊・伊弉諾尊の子孫で地上に下った神や、日本書紀に登場しない各地の神々。

椎根津彦、須佐之男命、櫛名田比売、少名毘古那神、大物主神、久延毘古、多邇具久、大綿津見神、大山津見神、宇迦之御魂、大年神、木花之佐久夜毘売、玉依比売、豊玉毘売、八束水臣津野命、多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命、伊勢津彦など


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まとめ

「古事記」「日本書紀」が成立し、天照大御神を頂点とした神話体系が確立され、神々の中で上位に立つ天津神と各地の信仰の対象の神々国津神とが出来てきました。

崇神天皇の時代疫病がはやり、天皇の枕元に大物主が現れ「我を祀れば、疫病は治まる」と告げたとされています。天皇は大物主の末裔を探し、その物に大物主を祀らさせています。崇神天皇時代(3世紀後半から4世紀初頭)の天皇家は大物主を信仰していましたが、記紀(『日本書紀』は720年(養老4)に完成)が成立する時代になると大物主を国津神としその地位を下げ天皇家中心とした祖先信仰へと切り替えていきます。

大物主は国津神へと追いやられ、天照大御神を頂点とする現在の神道の形が作られたのです。

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