東叡山寛永寺|うたかたの夢、日本最大の寺院だった上野寛永寺

2021年5月26日

上野寛永寺

上野の寛永寺は、江戸時代には奈良の東大寺や法隆寺より大きな寺院でした。

その敷地は、最盛期には現在の上野公園の二倍もの敷地を有していたといわれています。

幕末上野戦争によりその建物のほとんどが焼失し、敷地は明治政府により接収されてしまいました。

上野公園を散策したり動物園で楽しんでいる時、かつてこの場所に大寺院が有ったなど想像もしませんでした。

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上野寛永寺沿革

芝の増上寺と上野の寛永寺は、ともに徳川将軍家の菩提寺ですが増上寺は徳川家が江戸に来る以前から有ったものですが、寛永寺は完全に徳川家によって建立されたお寺です。

江戸幕府創建時に家康・秀忠・家光三代の将軍が深く帰依していた天台宗の天海僧正の要望に沿う形で、大寺院が江戸初期に建立されました。

寛永寺の正式名称は、東叡山寛永寺円頓院と言います。東叡山とは、東の比叡山という意味です。

延暦寺は京都の鬼門の位置に建てられ国家鎮護の役割を持っていますが、寛永寺もまた江戸の鬼門の位置に建てられ幕府鎮護の役割を担っています。

江戸も京都も、風水に基づいた都市設計がなされています。

鬼門の位置に都市を守護するために大寺院を立てるのは重要なことで、寛永寺の重要性が当時最も高かったことがうかがえます。

そして円頓院とは、比叡山延暦寺開祖の最澄が定めた、十重戒四十八軽戒きょうかいという戒律を円頓戒と呼びこの名より命名されています。

天海は完全に比叡山延暦寺を、江戸の地に再現し幕府の守護として設計したのです。

寺の創建は寛永2年(1625年)で、家光の時代に寺は出来上がっています。

寛永寺が江戸時代で最も重要で寺格の高い寺となったのは、承応3年(1654年)後水尾天皇の第三皇子であられた守澄法親王が入られ、これ以降江戸時代は皇族が門主を務めています。

寛永寺の門主は、寛永寺だけでなく天台宗・延暦寺・日光・出羽三山の住職をも兼務していました。この時代においては、寛永寺の門主は仏教界の頂点であったわけです。

先にも書きましたが、現在の上野公園は約60万平方メートルですが、旧寛永寺の境内は約119万平方メートルという広大な敷地でした。

上野と言えば桜の名所ですが、この桜は吉野から移植したものです。花と言えばもう一つ上野不忍池の蓮は有名ですが、この池は供養のために捕らえた生き物を池や野に放つ放生池ほうじょうちという役割を持っていました。上野を桜と蓮の名所にしてくれたのも、天海僧正のおかげです。

寛永寺は幕末の上野戦争で大半の堂宇が灰燼に帰し、土地も明治政府により接収されてしまいました。

今の国立博物館あたりに本坊があり、大噴水あたりに当時日本最大の中心伽藍根本中堂がそびえたっていたのです。

この上野戦争で焼失をまぬがれたのは、五重塔・清水観音堂・東照宮などごく数棟のみでした。

江戸幕府の栄華が焼失し、江戸の残影として残った堂宇が今も私たちを迎えてくれます。

上野寛永寺Picture

上野公園とその周辺に残る寛永寺の堂宇を紹介します。

清水観音堂

清水観音堂

現在残っている寛永寺のお堂の中で最も目立つのが、この清水観音堂です。

この観音堂は、上野公園の中心にありお花見の時はとてもにぎわっています。

清水観音堂と言うくらいですから、京都の清水寺を模して造られたものです。

もちろんその規模は比べ物になりませんが、不忍池方面から歩いてくるとそれなりに立派なものです。

この観音堂は、舞台造り正面5間、側面4間の入母屋になっています。

江戸時代に歌川広重名所江戸百景に描いた「月の松」は有名ですが、現在でも再現された松が当時を想像させてくれます。

本物の「月の松」は明治時代に台風により折れてしまい、現在の松は平成24年に再現されたものです。

清水観音堂のご本尊は、千手観音で脇仏は子育観音です。

優しいお顔の観音様で、江戸時代から庶民の信仰を深く集めていました。

清水観音堂

旧寛永寺五重塔

上野旧寛永寺五重塔

旧寛永寺五重塔は上野動物園内にあり、寛永寺の存在を知らない人にとっては何でこんなところにポツンと五重塔があるのと不思議に思ってしまいますよね。

この五重塔は、寛永16年(1639年)に出来上がり現在重要文化財に指定されています。

総朱塗りで高さ36.4メートルあります。この五重塔は塔身が細く優雅な作りで、江戸初期の塔建築の基本形を成しています。

旧寛永寺五重塔

寛永寺根本中堂と境内

寛永寺山門

寛永寺かねつき堂

寛永寺根本中堂寛永寺根本中堂

旧寛永寺は幕末の上野戦争により大本堂は焼失してしまいました、現在の根本中堂は明治12年に川越の喜多院の本地堂を移築して再建したものです。

寛永寺を創建した天海僧正は、もともと喜多院の住職をしてましたし喜多院自体徳川家の厚い庇護をうけていました。

このお堂は、明治に建てられたものではないのでこれはこれで立派なものです。

ご本尊は、伝教大師最澄が自ら掘ったと伝えられる薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)で、これは秘仏とのことです。

非公開ですが、境内には最後の将軍徳川慶喜が蟄居していた部屋も残っています。

徳川家綱霊廟勅額門

徳川家綱霊廟勅額門

東京国立博物館の裏手にあり、霊廟は2棟あったのですが戦災で焼失してしまいました。勅額門2棟と、水盤舎2棟が重要文化財として残っています。

上野大仏

上野大仏

上野大仏2

上野大仏  上野大仏4

上野大仏5  上野大仏6

西郷さんの銅像を右に眺めながら東京国立博物館に向かっていきますと、左側にヒッソリと「上野大仏」の看板が有ります。

看板の横の丘を登っていきますと、寛永寺の旧薬師堂本尊を祀っているパゴダ(仏塔)が有ります。

この仏殿の左脇に、上野大仏のお顔だけがさみしく祀ってあります。

この大仏は江戸時代の物ですが、関東大震災で頭部が折れ落ちてしまいました。

さらに第二次世界大戦の折には、軍による金属徴用により顔のみを残す現在の様相になってしまいました。

上野戦争を生き残ってきた大仏様です、在りし日の姿が戻りますよう祈ってきました。

不忍池弁天島と大黒堂

不忍池弁天島

弁天島大黒堂

天海僧正はこの上野の地に京都周辺を再現しました。この不忍池は、規模は全く違いますが琵琶湖を模しており、琵琶湖の竹生島になぞられたのがこの弁天島です。

ただ模倣しただけではなく御本尊の八臂大辯才天(はっぴだいべんざいてん)は、竹生島の宝厳寺から勧請(かんじょう)したものです。

現在のお堂は、昭和33年に再建されたものです。

この弁天堂は、谷中七福神の一つに数えられていますが、も一つあるお堂の大黒堂は谷中七福神に含まれていません。

こちらの大黒天は豊臣秀吉が大切にしていたという伝説があるようですが、何故江戸にあるかは公式HPには書いてありませんでした。

上野寛永寺基本情報

 所在地  東京都台東区上野桜木一丁目14-11
 電話 03-3821-4440
 山号 東叡山
 宗派 天台宗
 創建 寛永2年(1625年)
 本尊 薬師如来
 開基 徳川家光、天海(発願)
 アクセス 鴬谷駅から徒歩で10分
公式HP 寛永寺

まとめ

上野公園の奥深さに感動しました。

まだまだ寛永寺の足跡は多くあります、上野は行く機会も多いのでさらに写真を加えていきます。

今回上野に行った最大の目的は、上野動物園の「シャンシャン」を見ることでしたのであまり多くの寛永寺跡は見れませんでしたが、いずれさらに写真を加えていきます。

上野パンダ  シャンシャン

2018年6月19日撮影

 

※この記事は2016年9月24日にUPしたものを、加筆修正した物です。

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