東京の代表的天神社・天満宮:江戸三大天神と東都七天神とは?


多くの日本人が受験の時訪れたことがあるだろう、「天神社」「天満宮」を特集してみました。

我が家も子供たちが高校受験の時に訪れましたし、私も太宰府天満宮の絵馬を大学受験の時頂いてました。

「天神社」「天満宮」は江戸東京にも多くあり、その代表が「江戸三大天神」「東都七天神」です。

今回は、「江戸三大天神」と「東都七天神」を紹介します。(「東都七天神」の中には、「江戸三大天神」が含まれています。)

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▼目次

  1. 天満宮と天神様
  2. 江戸三大天神と東都七天神
  3. 亀戸天神社
  4. 湯島天満宮
  5. 平河天満宮
  6. 牛天神北野神社
  7. 西向天神社
  8. 五条天神社
  9. 関屋天満宮
  10. まとめ

天満宮と天神様

天満宮や天神社・北野神社・菅原神社と呼ばれるこれらの神社は、もう皆様ご存じでしょうが菅原道真を祀った神社のことです。

菅原道真は、西暦845年(承和12年)に生まれ、903年(延喜3年)に没しています。

仕えた天皇は、宇多天皇・醍醐天皇の時代です。事績として特に有名なことは、遣唐使を廃止したことでしょうね。道真自身は遣唐使に選ばれていたのですが、命の危険が多い遣唐使として唐に渡るのが嫌だったのかわかりませんが遣唐使の派遣中止を進言しています。その後唐が滅び、遣唐使自体が廃止になっています。

藤原氏の力が強まっていく中、藤原氏以外から道真は醍醐天皇より右大臣を拝命しています。

道真の力が増していくことに危機感を覚えた藤原時平讒言ざんげんをし、道真を大宰府へと左遷させます。道真はその二年後に、現地で没してしまいました。

平安時代は怨霊思想がピークに達する時代で、道真の死後平安京では雷、大火、疫病などの天変地異が相次ぎ、さらに追い打ちをかけるように清涼殿に雷が落ちる事件まで発生しています。

この落雷で、大納言の藤原清貫ら道真左遷に関わったとされる者たちが相次いで死んでいます。讒言の張本人とされる藤原時平は、道真死の3年後に39歳で死んでいます。(時平の子孫たちはその後、藤原氏全盛の時代ですら中流貴族として暮らしています。)

これらの事案に恐怖した天皇や貴族たちは、道真に「天満そらみつ大自在天神」と送り神として称えています。

この「天満」から、天満宮・天神と呼ばれるようになったわけです。(諸説あり)


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江戸三大天神と東都七天神

江戸・東都の代表的天満宮・天神社が、下記の七つの神社です。これとは別に東京の市部には、谷保天満宮など大きな天満宮・天神社がいくつかあります。また関東三大天神というと、亀戸天神社・湯島天満宮・谷保天満宮の三社をさします。

東都七天神とは、十返舎一九が著した『菅神御一代文章』に記載のある江戸の天神社・天満宮七社を指しています。

神社名 住 所 備 考
亀戸天神 亀戸天神社 東京都江東区亀戸3-6-1 江戸三大天神・東都七天神
湯島天神 湯島天満宮 東京都文京区湯島3-30-1 江戸三大天神・東都七天神
平河天神 平河天満宮 東京都千代田区平河町1-7-5 江戸三大天神・東都七天神
牛天神 牛天神北野神社 東京都文京区春日1-5-2 東都七天神
大久保天神 西向天神社 東京都新宿区新宿 6-21-1 東都七天神
五條天神 五條天神社 東京都台東区上野公園4-17 東都七天神
関屋天神 関屋天満宮
(氷川神社境内社)
東京都足立区千住仲町48-2 東都七天神


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亀戸天神社

亀戸天神梅の花
亀戸天神社は、東国の天神社の総社とされていて、江戸三大天神社・東都七大天神の筆頭に来ています。太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」と呼ばれています。あるいは「亀戸宰府天満宮」とも称されています。

亀戸天神社の縁起は正保3年(1646)九州太宰府天満宮の神官で菅原道真の子孫である菅原大鳥居信祐が、神のお告げにより公ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻んだ事から始まります。

菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるための社殿建立の志をもって、東国を中心に諸国を巡り 、江戸の本所亀戸村へとたどり着きました。

村には元々天神様の祠が有り、そこに天神像を祀ったのが亀戸天神社の起源です。

関連記事:「亀戸天神社|学業成就だけでないお花の神社」より引用



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湯島天満宮

湯島天満宮

湯島天神は東京で最も有名な天満宮で、年間約200万人ほどの参拝者が来るそうです。

こちらの神社の創建は大変古く、雄略天皇2年(458年)と伝えられています。

雄略天皇と言えば「倭の五王」最後の武王と考えられており、中国の史書には478年に上表文を皇帝にあげた記録が残っています。

菅原道真が生まれる500年ほど前に創建された神社ですから当初は、天之手力雄命あめのたぢからをのみことを祀っていました。天之手力雄命は、天照大御神が天の岩戸に隠れた時に、岩戸を引き開けた神様です。もちろん今でも天之手力雄命は、湯島天神の主祭祀の一柱としてちゃんと祀られています。

考えてみると神話の神様と、実在の人物が同じ神社に祀られているのはなかなか興味深いことですよね。

菅原道真が祀られるようになったのは、時代が下って南北朝時代の正平10年(1355年)とされています。研究者の中には、1355年がこちらの神社の創建と考える人もいます。

関連記事: 湯島天満宮|最強の学問の神様と言えば湯島天神


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平河天満宮

平河天満宮

平河天満宮は、江戸城を築城した太田道灌により建立された神社です。道灌の時代には江戸城内(平川門近く)にあったのですが、徳川家康が江戸城を増築したさいに 平川門外に奉遷され、さらに二代将軍徳川秀忠の時代に、現在地に移されています。

平河天満宮創建の逸話として、道灌がある日菅原道真の夢を見その翌日には菅原道真自筆の画像を贈られるという出来事が続けて起きたそうです。

この夢は霊夢であると道灌は思い、文明十年(一四七八年)に川越の三芳野天神を勧請し城内の北へ自ら施主となり天満宮を建立したとされています。

関連記事:平河天満宮|学問が成就できる撫で牛が鎮座する杜


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牛天神北野神社

牛天神北野神社

北野神社創建は、「源平の合戦」のさなかの元暦げんりゃく元年(1184年)に源頼朝により建立されたと言われています。

源頼朝がこの地にあった岩に腰かけ休息をとったところ、夢の中に牛に乗った菅原道真が現れ「二つの喜びがある」と告げたという伝承が有ります。

その翌年その喜びがあり、頼朝はこの地の岩を祀り、牛天神を建てたとされています。

現在でも「ねがい牛」を撫でると、願いが叶うという言い伝えがあります。

関連記事:北野神社|願い事をかなえてくれる「ねがい牛」が鎮座する牛天神


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西向天神社

西向天神社の創建は伝わるところによると、安貞2年(1228年)に京都栂尾とがのおの高山寺明恵みょうえ上人が東国巡行の際に創建されたと言われています。

この後荒廃していたようですが、天正年間(1573〜1592)に聖護院宮道晃法親王しょうごいんのみやどうこうほうしんのうにより再建されています。

こちらの神社は変わっていて、普通の神社は東か南に向いていますが西に向いています。そこから西向天神と呼ばれています。(法親王が再建しているので、京都に向いているとも言われています。)


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五条天神社

五條天神社
五条天神社の創建は不明ですが、ヤマトタケルが東夷征伐の途中に関東を通過した際にこの地に医薬祖神(大己貴命・少彦名命)を祀ったとされています。

ヤマトタケルが活躍した時代は、今から1890年ほど前と推測されます。(諸説あり)

江戸時代になり天海大僧正が、菅原道真の像を合祀し、それから下谷天満宮したやてんまんぐうとも呼ばれるようになっています。

関連記事:五條天神社|ヤマトタケル由来の医薬祖神を祀る上野の天神社


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関屋天満宮

関屋天満宮の創建は、村上天皇の時代天暦三年(949年)と言われ、御神体は菅原道真の自作百体彫刻の内の一体であると伝えられています。

この地域は源頼朝が、関を設けたことから関屋と呼ばれるようになりました。

水害などの影響で、天明7年(1787年)に仲町氷川神社の境内に遷座し現在に至っています。


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まとめ

天神様は、現代では最も信仰を集めている神様の一柱と言えます。

有名な天神様に参拝できなくても、地元に鎮座している神社の本殿(本社)とは別に、摂社・末社として天神社・天満社が祀られていることは多くあります。

受験などで有名な天神様にお参り出来なくても、安心して合格祈願を近くの神社の摂社・末社で祈れるかもしれません。

天神様は、それだけ私たちの近くに鎮座している神様です。

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※本文中 天神様=菅原道真として記載していますが、「天神」は「てんじん、あまつかみ」と呼び神や地名などを指す言葉です。

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